こんにちは、四十雀です。
今回は、南会津郡只見町を放浪した際に撮影した写真などのご紹介をしたいと思います。
まず、只見町についての簡単な説明をしたいと思います。
只見町は福島県の最西端、新潟県と隣接している町で、日本有数の豪雪地帯です(そのため、只見町を通過し新潟県を結ぶ国道252号線は、冬季間は通行止めとなる程です。)。
また、町内を流れる只見川には複数の水力発電用のダムがあり、特に田子倉ダムは日本第2位の出力を誇る巨大なダムです(同ダムにある田子倉湖では遊覧船も運行されています。)。
自然豊かな只見町では「自然首都」をキャッチフレーズにしており、登山や渓流釣り、野鳥観察等、自然を満喫することの出来る場所と言えます。
さて、今回ご紹介する一つ目の写真はこちらとなります。
これは、JR只見線の只見駅に停車中の列車(キハ40系)で、「朱色5号」と呼ばれるカラーのものです。
今回、2日間臨時列車が運行されると聞き、只見町を訪れてみました(臨時列車の運行イベントは、定期的に行われているようです。)。
別のアングルから撮影した臨時列車です。只見線は電化されていない区間となります。
なお、只見駅近くには、遮断機も警報器もない踏切、「第4種踏切」があります。JRの踏切のうち、約7.4%しかないレアな踏切です。
さて、今回、念願の臨時列車を撮影することが出来ましたが、出来れば昔懐かしい肌色の列車が撮影したかった・・・なんて思いました。
インターネットでDLした、千葉県のいすみ鉄道を走る、肌色の列車です。もはや現行で走行する車両は少なく、レアなものといえます。
ちなみに、只見線では、現在このカラーの車両が運行されています(なお、只見線は、平成23年に発生した豪雨のため、一部区間が不通となっています。)。
さらに、朱色5号と白と緑カラー以外のカラーの列車も、実は只見線で運行されているようです。
これは、隣町である大沼郡金山町にある会津川口駅に停車中の車両を撮影したものです。
私は特に「撮り鉄」という訳ではありませんが、レトロ系の車両については多少の興味があるものです(特に、このキハ40系はそろそろ姿を消しそうな気配があります。)。
今後も機会があれば、レトロ系の車両を撮影したいと思います。
次にご紹介したい写真は、只見町内にある「河井継之助記念館」の写真です。
河井継之助は、幕末に活躍した越後長岡藩の家老で、司馬遼太郎氏の小説「峠」の主人公でもあります。戊辰戦争の戦いの一つでもある北越戦争の際、武装中立を表明しましたが新政府軍に受け入れられず、結局旧幕府軍側に付き戦いました。
そして、戦いの中、一度は新政府軍に奪われた長岡城を奪還するという活躍をしますが、その後、流れ弾に足を撃ち抜かれ指揮を取ることが出来なくなり、結局長岡城も再奪還されてしまいます。
結局、継之助は長岡から八十里越え(国道289号線の未開通区間)を通り会津へと向かう途中、破傷風を発症し、只見町内で病没してしまいます。
継之助周縁の地は、只見町塩沢にあった地元の医師宅でしたが、塩沢の地が只見川の電源開発により水没することになった際、継之助が最後を迎えた部屋を移築、そして、記念館が作られました。
記念館内に移築された継之助終焉の部屋です。約150年前に存在していた建物が現在もこうして綺麗に移築され残ることに、驚きを感じます。
個人的な同記念館最大の見どころとして一押しするのはこちら、当時のガトリング砲のレプリカです。
継之助は、北越戦争時、当時日本に少数しかなかった同砲を購入、自ら操作して使用したとされています。
歴史というものは、勝者が残すものという都合上、敗者側である継之助の知名度は決して高いものではありません。しかし、「峠」を読んで頂くと分かりますが、魅力と行動力のある人物であったと感じられると思います。
もし、興味のある方は、ぜひ「峠」を一読の上、継之助に思いを馳せながら同記念館や新潟県長岡市を散策されることをおすすめいたします(同記念館では、上記の他、さまざまな継之助ゆかりの品々が展示されています。)。
最後に、私が同記念館を訪れた時、継之助を追慕する歌が吹き込まれたカセットテープが無料配布されていました。そのうち再生してみたいところですが、このまま未開封のまま保存していた方がいいのかな、とも思えて、少し悩んでいるところです。