四十雀の素人・初心者による週末農業(+α)日記

四十雀の素人・初心者による週末農業(+α)日記

福島県在住のアラフォーど素人初心者の手による週末農業(野菜・ハーブ育成)の様子を始め,県内(及び隣接県)の温泉,日本酒,釣り紀行,各種写真(野鳥,風景,猫等々)等,名産品や見所をゆるくご紹介するブログです。

歴史・伝承探訪(静御前・福島県郡山市)

こんにちは,四十雀です。

今回は,郡山市に伝わる「静御前」ゆかりの場所等についてご紹介したいと思います。

静御前と言えば,源平の合戦で活躍をした源九郎義経の愛妾で白拍子(歌舞を演ずる芸人)です。

現在の郡山市には,「静御前通り」など,静御前の名を冠した場所がいくつか点在しています。郡山市静御前のつながりと言うのは,次のような経緯があるとされています。

まず,鎌倉時代に成立した歴史書吾妻鏡」によれば,源義経と別れた静御前はその後捕らえられ,文治2年(1186年)3月に鎌倉に送られます。

その後,義経の子供である男児を生みますが,義経が敵対していた義経の兄,源頼朝の手によりその男児は殺害されます。

やがて,同年9月に静御前は京都に帰されたといいますが,それ以後の足取りは不明とされています。

しかし,伝承によれば,静御前は少数の従者(小六という男の従者と,さいはらという女の従者)を連れ京都を密かに出発,平泉に逃れた源義経の後を追います。

この旅は難儀したものと思われ,一行が安積郡白石から大槻に下る峠に来た時,従者の小六が死亡,仕方なく同人を同地に埋め,一晩峠で過ごしたといいます(この峠は「小六峠」と呼ばれ,現在は郡山ゴルフ倶楽部のコース内に碑があるとのことです。)。

小六亡き後,女二人旅となった一行は,峠を下り,安積郡大槻の里の「花輪長者」という豪族の屋敷に身を寄せました。

花輪長者は親切に二人に馬を貸し,それに乗り,まずは飯坂医王寺の義経の忠臣,佐藤継信・忠信の墓を尋ねたらと言い,二人もそれに従いましたが,明日出発という夕刻,奥州街道にある宿に,平泉で討たれた義経の首を運ぶ一行が宿泊したという報せが入りました。そこで,花輪長者は,人を差し向け確かめましたが,間違いないという報でした。

悲報を受けた静御前でしたが,翌日,長者を始め,世話になった里人を招き,義経供養の舞を披露しました。
そして,静御前は,これまで世話になった礼を言い,自らは京都に戻ることを告げましたが,その夜,彼女は,屋敷の裏にある池に身を投げて死んでしまいました。文治5年(1189年)のことと言います。

つまり,この伝承では,静御前郡山市で死去したこととなります。
そして,静御前が身を投げて死んだとされる池が,現在も残る「美女ヶ池」となります。

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郡山運転免許センター前にある池が「美女ヶ池」です。現在は鯉の養殖池となり,多くの水鳥が羽を休めています。

なお,一人のこされた従者のさいはらは,里の者に針仕事を教えたと言われています。そのため,その地を,「針生」と呼ぶようになったといいます(現在も「郡山市大槻町針生」の地名として残ります。)。

さて,この話には後日談があります。
静御前没後約400年近く経過した頃,当時の大槻城伊東左衛門高行は,村内にある小高い塚の跡から,夜な夜な怪しい光が放たれ,里人が恐れているという話を聞きます。

高行はそこを掘らせると,中から幾つかの石碑が現れ,調べてみると,静御前を祀った霊所であることが分かりました。そこで高行は,その地にお堂を建てましたが,それが今日残る「静御前堂」となります。

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現存するお堂の様子です。

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なお,敷地内には古墳が存在している場所となっています。

このように,静御前ゆかりの場所が点在する郡山市ですが,実のところ,郡山市以外にも,静御前終焉の地とされる場所がいくつか点在します(私も若い頃,新潟県栃尾市を旅していた時のこと,静御前のものとされる墓があるのを見たことがあります。)。

果たして郡山市が本当に静御前終焉の地かは不明ですが,とても興味深い話と言えると思います。

参考資料
福島の伝説(角川書店
郡山美女伝説めぐり(歴史春秋社)
その他