こんにちは,四十雀です。
今回は,郡山市に伝わる「蛇骨地蔵」ゆかりの場所等についてご紹介したいと思います。
「蛇骨地蔵」という,なんともおどろおどろしい名前の地蔵ですが,次のような伝承が今に伝わります。
養老年間(717~724年)のこと。奥州白河と安積二郡の国司に安積左衛門忠志毛(忠繁)という人がいて,桧渡(日和田)に舘を構え暮らしていました。
忠志毛には「あやめ」という美しい一人娘がいましたが,この娘に,重臣の安積玄蕃時が横恋慕し,ある時,忠志毛を屋敷に招いて酒宴を開き,あやめを妻に欲しいと申し込みましたが,忠志毛は時里をよくは思わず,その申し出を拒みました。これに時里は激怒し,忠志毛を隙を見て殺害してしまいます。
父を殺されたあやめは,舘を抜け乳母と供に身を隠します。しかし,国司の座に就いた時里は再度あやめに迫りますが,父の仇である時里の妻になるはずもなく,あやめは近くの沼に身を投じます(この沼は「安積沼」とも言われています。また,時里があやめを沼に投じたともいいます。)。
村人達は,時里の行いを憎み,旧主忠志毛の恩を忘れず,あやめのために菖蒲や花かつみを植えて供養したところ,しばらくは何事もありませんでしたが,一月ばかり経つと,突然沼が荒れ狂い,ある夜,百丈(約300m)はあると思われる大蛇が現れ,時里一家を沼に引きずりこみました。この大蛇はあやめが化身したものでした。
それからというもの,この村は天候不順となり,五穀は実らず田畑は荒れ果てました。困り果てた人々は沼でお祈りをしていると,沼の彼方にあやめが現れ,「周囲の村々は時里の一族どもであり,恨みは晴れない。これから後,毎年3月24日にまだ嫁がない女を人身御供に供えれば祟らない。」と言い,沼に消えました。
村人は泣く泣く,くじに当たった娘を人身御供に捧げ,その数は32人を数えるまでとなりました。そして,今年は33人目,片平村の権勧太夫という者の娘が人身御供に決まりました。しかし,権勧太夫は悲しみ,妻に相談すると,都は人買いという者がいるので,そこで代わりの娘を買おう,ということになり,権勧太夫は都の方へ旅立ちます。
そして,鎌倉の長谷観音に参詣した際に,美しい娘が観音様に祈りを捧げているのを見て,この娘こそと思い,ことの次第を話すと,この娘は父の法要を済ました後必ず参ると約束してくれたので,権勧太夫は謝礼を渡し,片平村へと帰りました。
この娘は大和国の佐世姫といい,父母と死別しましたがその霊を弔う金も無く,我が身を売り,人身御供の身代わりとなることを約束したもので,佐世姫は約束の3月24日に,人身御供の祭壇の上に臆せず乗りました。
すると,沼からは大蛇が現れましたが,佐世姫は慌てず声高らかに法華経の経文を読み上げると,大蛇は忽ちのうちに消え,美しい女神が現れ,これからは周辺の村々を鎮めることを約束するとともに,自身の死んだ骨(蛇骨)を授け,これに地蔵尊を刻むよう言うと,忽然と姿を消しました。
そこで,佐世姫は身を清めて蛇骨に地蔵尊を刻み,沼のほとりにお堂を建立し蛇骨地蔵尊として祀りました
また,佐世姫は,地蔵尊を刻み終わると神女が現れ,雲に乗せ大和国に飛び去ったといいます。
さて,蛇骨地蔵を祀るお堂は,かつては沼(安積沼)のほとりにあったとされています。
この沼は現在はありませんが,元々は,現在の日和田町から片平町に広がる,かなり広大な沼として存在していたようです。
そして,現在でも,お堂は日和田町に現存しています。
現在は,近くにある西方寺というお寺さんの境内にあり,佐世姫の木像もあるとのことです。
興味のある方は,お寺さんでさらに詳しい話を伺うと良いのではないでしょうか。
最後に,この辺りには,「蛇ケ森」という地名が残りますし,また,近くには沼も現存します。蛇骨地蔵の伝承と何かいわくがあるのかも・・・などと,空想してしまうところです。
参考資料
ふくしまの幽霊(歴史春秋社)
その他