四十雀の素人・初心者による週末農業(+α)日記

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福島県在住のアラフォーど素人初心者の手による週末農業(野菜・ハーブ育成)の様子を始め,県内(及び隣接県)の温泉,日本酒,釣り紀行,各種写真(野鳥,風景,猫等々)等,名産品や見所をゆるくご紹介するブログです。

歴史・伝承探訪(猪苗代湖・福島県耶麻郡猪苗代町)

こんにちは,四十雀です。

今回は,猪苗代町にある猪苗代湖に伝わる埋蔵金伝説についてご紹介したいと思います。

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猪苗代湖といえば,日本国内で4番目に広い湖で,別名「天鏡湖」と呼ばれる美しい湖でもあるのですが,実は,埋蔵金にまつわる伝説も存在しています。

それは,かつて会津を統治した戦国大名蘆名氏にまつわる埋蔵金です。

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蘆名氏の家紋です。

蘆名氏は黒川城(福島県会津若松市,現在の鶴ヶ城の前身)を居城とし,最盛期には会津四郡(耶麻郡河沼郡大沼郡会津郡)や安積郡西部,岩瀬郡長沼地方を支配していました。

特に,第16代当主盛氏の時代が蘆名氏の最盛期でしたが,盛氏没後,第17代当主盛隆は家臣に暗殺,第18代当主義広の時代に侵攻してきた伊達政宗と磨上原で戦い敗北(天正17年(1589年),義広は生家である常陸の佐竹氏の元に逃れ,蘆名氏は滅亡することになります。

さて,義広は,上記のとおり常陸の佐竹氏から養子として蘆名氏に来た人物のため常陸へ逃走することになりました。その際,軍用金として備えていた金の延べ棒を十八頭の馬に積み城を出ましたが,兵士に気付かれたため,猪苗代湖の中田浜附近で湖底に沈め,逃走した・・・というのが,埋蔵金伝説の骨子です。

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埋蔵金のイメージです。

なかなか興味深い話ではありますが,果たして本当にこのような事実が存在するのか,色々調べたところ,いくつかの疑問が生じ,その疑問について,私なりの回答を考えてみました。

 
まず,そもそも本当に「軍用金」が存在していたか,という疑問があります。

蘆名氏が会津を統治した時代,その領内において,複数の金・銀を産出する鉱山が存在していたのは事実であると思います。
例えば,桧原鉱山(耶麻郡北塩原村天正年間の発見と伝承),軽井沢鉱山(河沼郡柳津町,永禄元年の発見と伝承),高玉鉱山(郡山市天正元年の発見と伝承)などが存在していました。

これらは盛氏の内政面(金山開発)の功績と考えられ,結果,蘆名氏の重要な資金源(軍用金)となったものと思われます。

事実,盛氏の時代,幾度も仙道(現在の中通り方面)や越後方面へ積極侵攻をしていますが,それは豊富にかつ容易に軍資金が手に入る裏付けがあったからだと思われます。そして,産出された金銀を城内に非常時用の軍用金として備えていた可能性は十分あると思われます。

しかし,盛氏は,永禄3年(1560年)から天正4年(1576年)に6度も徳政令(債権者・金融業者に債権放棄を命じた法令)を出したといいます。この事実から,領内は実は疲弊していたのではないか,とも考えられます(なお,戦国時代の気候は寒冷で,米の収穫量も少なく,飢餓を防ぐために戦争をしたとも言いますが,それではより疲弊が進むだけのようにも思えます。)。

あくまで想像の話ですが,優れた産出量を誇る鉱山を有してはいたものの,領内が次第に疲弊していたため,それ程大量の金銀を産出することはできなかった可能性はあるのではないでしょうか(参考までに,江戸時代の最盛期の佐渡金山では年間400Kg産出できたといいます。)。

私個人の見解ですが,軍用金は存在したにせよ,馬十八頭に積むほどの量はなかったのではないでしょうか(江戸時代の定めですが,馬一頭に背負わせる荷物の単位「駄」は三十六貫(約135Kg)とされます。単純に一駄×十八頭では約2430Kg=2t超えになります。些か誇しているように思えます)。

次の疑問は,軍用金が存在していた場合,本当に持ち出すことが出来たのか,という点です。

伊達政宗に敗れた蘆名義広は,居城・黒川城を夜陰に紛れ逃走しました。これは,義広が蘆名氏に養子に入る際,生家の佐竹氏から家臣も一緒に蘆名氏に入り,結果,蘆名氏の旧臣と対立したことが遠因となり,黒川城等で徹底抗戦できなかったためと考えられています(蘆名氏旧臣は政宗に降伏しています。)。

今まさに政宗の軍が侵攻しようとしている最中,城内もまた,義広に不満を抱く家臣が多い状況であれば,取るものも取らず着の身着のまま逃げ出すように思えてなりません。大量の軍用金を運んでいては,すぐ誰かに気付かれそうにも思えます(なお,常陸に逃れる一行は20人あまりとも,女性を含め100人あまりともいわれています。)

無論,義広自身には蘆名氏再興のための資金として軍用金を持ち出すことは考えはあったかも知れませんが,生家の佐竹氏に戻り,その力や豊臣秀吉の力を借りて再興(事実そうなりました。)すればよく,追っ手に捕まるようなリスクを犯して軍用金を持ち出したとは思えません。

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さて,黒川城を出た義広一行は,白河街道(現在の国道294号線)を使い常陸へと逃走するしか方法はなかったはずです(白河街道沿いに問題の中田浜があります。)。この街道は蘆名盛氏が開通したといい,それを使い逃走するのはなんとも皮肉な話と思います。

そして,最後の疑問としましては,仮に軍用金を持ち運んだ場合,湖に沈めるという方法で本当に隠したのか,というものがあります。

潜水技術が未発達な時代,湖に沈めた後回収するのは難しくはないのか,また,地中等に埋めた場合に比べ,第三者が偶然発見しやすいのではないか,といった問題点が挙げられるのではないかと思います。

このように,本当に埋蔵金があるかどうか不明な話ではありますが,実は昭和初期頃に,蘆名氏の子孫同士による埋蔵金引き上げ騒ぎがあったとのことです。

最終的にはあまりの加熱振りを危惧した警察当局により中止命令が出され打ち切られた,とのことですが,ロマンのある話でもありますし,ぜひ実施してもらいたかったとも思ってなりません。

最後に,現在の猪苗代湖は国立公園に指定されている関係上,埋蔵金の引き上げ等はできない由とのことです。

参考文献
会津に関する謎特集!(歴史春秋社)
会津の街道(歴史春秋社)
その他