こんにちは,四十雀です。
今回は,田村郡三春町にある三春城についてのご紹介をしたいと思います。
別名「舞鶴城」とも呼ばれる三春城は三春町中心部にある城山(大志田山)築かれた城で,江戸時代には三春藩の藩庁として機能していました。現在も郭や堅堀などの遺構が残されています。
なお,意外なことに三春城を巡る戦いというものはなく,天正16年(1588年),田村氏の後継者争いに介入しようとした相馬義胤が反相馬派の田村氏家臣らから鉄砲や矢を射られた(この際,義胤は非武装で供の者は僅か15騎だったといいます。)。ことがあるのみでした。
これはつまり,田村氏は本拠地まで敵に攻め入られることのない領主であったということなのだと思います。
三春城のパンフレットより。このパンフレット,A3サイズで,地図部分を分割し貼り付けているため,見苦しい点御了承ください。
三春城は永正年間(1504年~1521年),当時の領主である田村氏により築かれたとされています。
田村氏は天正18年(1590年),豊臣秀吉の奥州仕置により改易されると三春城は一時期伊達氏預かりとなりました。
その後,三春の地は蒲生氏→上杉氏→蒲生氏→加藤氏→松下氏と続き,寛永22年(1645年),秋田氏が5万5000石の領主として封じられた後,幕末まで同地を統治することになります。
三春城の入口付近,お城坂です。三春城は標高407.8mにある平山城のため,勾配のある坂を登る必要があります。
城郭想定図が設置されておりました。
愛姫生誕の地の碑が設置されておりました。愛姫は伊達政宗の正室として有名です。
二の丸散策路を抜けると二の丸跡地が広がっていました。
なお,近くにある公園でうちの細君が野生のリスを目撃しました。リス以外にも野鳥もかなり確認でき,自然が豊かな場所であることが伺えます。
本丸付近の様子です。廃藩置県の後,三春城の建物類は取り壊されましたが,大正11年(1922年)に城山公園として整備されました。
本丸付近には奥や大広間の跡を示す柱がありました。
眼下には現在の三春の町並みが広がります。
本来,城は軍事上の拠点のため,高所に築く必要がありますが,戦国の世が終わり,藩庁として機能するようになってから,このような高所で生活するのは大変だったろうな・・・などと感じてしまいます。
参考資料
福島県の中世城館跡(福島県教育委員会)
ふくしまの城(歴史春秋社)
ふくしま紀行 城と館(福島民報社)