四十雀の素人・初心者による週末農業(+α)日記

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福島県在住のアラフォーど素人初心者の手による週末農業(野菜・ハーブ育成)の様子を始め,県内(及び隣接県)の温泉,日本酒,釣り紀行,各種写真(野鳥,風景,猫等々)等,名産品や見所をゆるくご紹介するブログです。

歴史・伝承探訪(赤館・福島県東白川郡棚倉町)

こんにちは,四十雀です。

今回は,東白川郡棚倉町にある東館についてのご紹介をいたします。

棚倉町中心市街地北側,標高345mの館山に存在していたのが赤館で,現在は公園として整地されています。

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赤館へと向かう道筋。鬱蒼と木々が茂り,自然が残されています。

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現在,赤館は先に記載したとおり公園として整地されており,公園付近に目立つ遺構はありませんが,周辺を散策すれば,空堀や土塁などの遺構が今も残るようです。

赤館がいつ頃築かれたかは不明ですが,どうも建武年間(1334年~1336年)頃には築かれていたらしく,「赤館氏」が城主となり本拠として周辺に勢力を伸ばしていたようです。

ただ,戦国時代になると,常陸の佐竹氏がこの地にも侵攻するようになり,永禄3年(1560年)には佐竹氏が寺山館(赤館同様,棚倉町に存在した館)まで来たため,白河結城氏を支援することにした蘆名盛氏は,永禄3年(1560年),赤館氏を別の地に移し,白河結城氏家臣上遠野盛秀を城代として置いたといいます(なお,赤館氏はその後領地を失い浪人したとのことです。)。

しかし,天正3年(1575年),佐竹氏は赤館の攻略に成功,南郷の地を制圧することになります(上遠野盛秀は天正元年(1573年)頃病没したとも,天正3年に佐竹氏に仕えたともいいます。)。

その後,一時赤館は白河結城氏に奪回されたこともありますが,佐竹氏はすぐに取り返し,この地を陸奥侵攻のための前線基地としました。

特に,天正13年(1585年)の人取橋の合戦には赤館から兵を出陣させたほか,天正17年から翌18年(1589年~1590年)にかけては,摺上原の合戦で蘆名氏を破り,一挙に南下してきた伊達氏に対し,赤館を本陣として諸将を配したといいます。

そして,慶長5年(1600年)の関が原の合戦前後には,一時上杉領と接する赤館に佐竹氏が出陣しています。まさに,赤館が佐竹氏の前線基地として機能していたことが伺えるかと思います。

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館の歴史が書かれた,同地にある看板となります。

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赤館から望むことができる現在の棚倉町の様子です。
この城を敵に奪われると,棚倉町南方から北上する兵の動きがすぐ分かると思います。佐竹氏にとり必要不可欠な要衝であったことがこの景色からも伺えます。

赤館はその後,関が原の合戦後の慶長7年(1602年),佐竹氏が秋田に転封された際に同時に破却されたといいます。

ただ,翌慶長8年(1603年),立花宗茂が初代棚倉藩主として入部した際には,この赤館に入城したとも言われています(その後,棚倉城が完成すると完全に赤館は破却されたようです。)。

このように,赤館は,佐竹氏(佐竹義重,義宣親子)や立花宗茂という著名な戦国武将が関連した貴重な城となります。

参考資料
福島県の中世城館跡(福島県教育委員会
ふくしま紀行 城と館(福島民報社