こんにちは、四十雀です。
今回は、福島市にある古舘についてのご紹介をいたします。
それは、福島市北西部にある飯坂温泉の街中を散策中のことでした。
住宅街にある坂道を特に目的もなく登りますと・・・。
そこには公園があり・・・。
ん?
「城跡古舘」の標識が。つまり、ここは城跡ということですか。
さらに公園内を調べると、「城跡古舘」のいわれを書いた看板を見つけました。
看板を見た限りでは、この城には伊達氏の者が入城しており、統治していたことが伺えます。
ただ、私の持っている文献にはこの「古舘」に関する記述がなく、あまり詳細が分からなかったため、インターネットを調べたところ、次のようなことが分かりました。
まず、この城の名称は「飯坂城」と言うそうです。「古舘」とは、あくまでかつてこの地に「古い舘があった」ことにちなむ俗称でしょうか(福島県内には「古舘」という名称の城跡が他にもたくさんありますし、飯坂町にも他に2つ程「古舘」があると、「ふくしま紀行 城と舘(福島民報社)」に書かれています。)。
飯坂城の歴史は先の看板に書かれたとおりですが、さらに補足しますと、看板内に書かれている飯坂城主・飯坂左近将監宗康の娘である飯坂局は伊達氏17代当主・伊達政宗の側室で、山岡荘八の小説「伊達政宗」では「猫御前」と呼ばれたりもしています。
飯坂局は天正19年(1591年)、政宗の子・秀宗を産みます。政宗にとって初めての男子である秀宗でしたが、側室の子であるため政宗の跡(仙台藩当主)を継げず、代わりに分家という扱いで伊予国宇和島藩の初代藩主となります。
さて、飯坂局の父・飯坂宗康は天正17年(1589年)に死去後、飯坂氏は男子がいないため断絶しましたが、慶長9年(1604年)、飯坂局が政宗の三男・宗清を養子とし(ただし、宗清は飯坂局の子とする説も。)飯坂氏を再興することになります。
・・・と、ここまでの話は何とか調べて分かりましたが、飯坂城がいつ頃使われなくなったかはよく分かりません。推測ですが、飯坂宗康の死の翌年(1590年)に奥州仕置が行われ多くの所領を失ったことを考えると、この同時期またはそれ以降に使われなくなったと推測するしかないでしょう。
現在は完全に公園として整備されており、古舘に関する遺構は見受けられません。
しかし、往時に思いを馳せながら温泉街を散策するのもまた楽しいと思います。
参考資料
インターネット