こんにちは、四十雀です。
今回は、南会津郡只見町にある水久保城についてのご紹介をいたします。
水久保城は、只見町中心市街地の西にそびえる要害山(標高約705m)にある典型的な山城です。
要害山遠景です。
登山口もあり、現在はテレビ中継塔が建設されています。そのため、多少付近は壊されているものの、曲輪や土塁、空堀等の遺構は残されています。
さて、戦国時代、只見の地は蘆名氏に仕える山内氏が支配していました。
山内氏は中丸城(福島県大沼郡金山町)を拠点としていましたが、天正17年(1589年)、蘆名氏が伊達政宗に滅ぼされると、山内氏は越後の上杉氏の支援を受け、伊達政宗に抵抗します。
しかし、山内氏の中丸城は伊達政宗の攻撃を受け陥落、山内刑部大輔氏勝はこの水久保城に退却、ここで伊達政宗に降伏することなく戦います。同城は、六十里越え(現国道252号線)、八十里越え(現国道289号線、一部未通)があり、越後と通じやすいという利点がありました。
その後、この水久保城にて、上杉氏や豊臣秀吉の意を受けた石田三成の助成を受け、伊達政宗と徹底抗戦を続けた山内氏でしたが、天正18年(1590年)、豊臣秀吉による奥州仕置において、会津の地が蒲生氏郷に与えられることになると所領を失うことになります。
実は山内氏には,伊達政宗との交戦中、石田三成より本領を安堵するので、豊臣秀吉が会津に攻め込むまで伊達政宗との戦闘を継続せよ、という旨の書状が送られていました。
山内氏はその命に従い戦いを続けていたのですが,最終的にはその約束は反故にされてしまいます。
所領を失った山内氏当主氏勝はその後、越後国魚沼郡に蟄居、後に出家し俊勝と号したといいます。
以後,水久保城は廃城とされたと思われますが,いつ頃の話かは定かではありません。
参考資料
福島県の中世城館跡(福島県教育委員会)
ふくしまの城(歴史春秋社)
ふくしま紀行 城と館(福島民報社)