こんにちは、四十雀です。
今回は,白河市にある白川城についてのご紹介をいたします。
白河市にある城・・・と言うと,通常,白河小峰城を思い浮かべる方が多いかと思います。
街中,JR東日本沿線沿いにある同城は木造三重櫓が復元され,周囲も整備されており観光客も多く立ち寄っている場所です。
今回ご紹介する白川城はこの白河小峰城より前に築城された城で,白河市街地の東南東,阿武隈川筋を一望できる標高約403mの丘陵の要害地帯にある山城で,別名「搦目城」とも呼ばれています。
白川城へ行く道は細く,入口付近がようやく車を置ける程度に開けています。
同城の明確な築城年代は不明ですが,文治5年(1189年),結城朝光が源頼朝に白川の地を与えられた後,朝光の孫・祐広が正応2年(1289年)に同地に移住,白川城を居城としたといいます。
そして,祐広の子・宗広は,後醍醐天皇が鎌倉幕府に対し挙兵した際それに従い鎌倉攻めに参加した功により結城氏の惣領と認められることになります。
やがて,後醍醐天皇と足利尊氏が対立すると,宗広は南朝方に属することになりますが,その間,宗広の子・親朝は白川の地に戻り勢力を拡大,ついには伊達氏をも凌ぐ奥州随一の勢力にまで成長することになります。
なお,親朝は宗広の嫡男ですが,別家である小峰家を築き,宗広の死後,結城氏の家督は宗広の嫡男・顕朝が継ぐことになります(この際,親朝が白河小峰城を築いたとされます。)。
その後の結城氏は,室町幕府と鎌倉府の対立の中を巧みに生き残り,結城政朝の時代には結城氏の栄華を讃える一日一万句の連歌会が開催(文明13年(1481年))されるなど,全盛期を迎えることになります。
しかし,この一日一万句の連歌会の後,結城氏は緩やかに衰退を迎えることとなります。
政朝の時代,結城氏とその分家小峰氏間の対立(その結果,政朝は小峰朝脩を自害させたといいます。)や,老年になっても家督を譲らないことに政朝の嫡男・顕朝が不安を感じ,永正7年(1510年),小峰直常(朝脩)や家臣の力を借り政朝を追放しましたが,この内紛で結城氏の力は衰退,所領を多く失ったといいます。
なお,この内紛の後,顕朝は白川城を出て白河小峰城に移り,同城を本拠としたとされているので,白川城はこの時代に廃城とされたと思われます。
その後も幾度か結城氏と小峰氏との間の対立,また,周辺の有力勢力である佐竹氏や那須氏の侵攻を受け,結城氏は衰退の一途を辿ることとなり,最終的に結城氏は伊達政宗に服属することになりました。
そして,天正18年(1590年),豊臣秀吉の小田原征伐の際,結城氏は政宗から小田原への参陣を止められていたため,政宗に秀吉への貢物を託しましたが秀吉からは許されず,結城氏は奥州仕置により所領を没収,改易されてしまうのです。
現在の白川城の様子です。
なお,白川城は平成28年(2016年)に国の史跡に指定されていますが,特段,周囲が何か整備されている訳ではありません。
後村上天皇に関する碑が存在しています。
これは,結城宗広が南朝方の武将として活躍したからだと思われます。
少し意味ありげな祠も残されています。
城跡からは現在の白河市の町並みを見ることができます。
同城で合戦が行われたかは不明(内紛程度は起きたと推測します。)ですが,見た感じ,守りの厚い城に思えます。