こんにちは,四十雀です。
今回は,耶麻郡北塩原村の穴沢氏についてご紹介をしたいと思います。
先日,同村にある温泉に立ち寄った時のことでした。
sizyuukara-1979.hatenablog.com
その温泉の近くには,次の写真のような物が置かれていました。
時代を感じさせる五輪塔と墓石が置かれています。
これは,かつてこの桧原の地を支配していた穴沢氏の五輪塔と墓石となります。
穴沢氏は会津を治めていた蘆名氏に仕えていた一族で,文明18年(1486年),蘆名盛高の命により,約350名の郎党を引き連れこの地に来て,一帯に住む山賊を退治,そのままこの地を与えられました。
実は,この桧原の地は,当時会津と米沢と結ぶ米沢街道が通る要衝の地でした(現在会津と米沢を結ぶ国道121号線が通じたのは平成22年(2010年)のことで,それ以前の旧道でさえ明治20年(1887年)の開削です。)。
当時の桧原の地は,隣国米沢の伊達氏から常に狙われる危険性を有していました。
事実,永禄7年(1564年)から永禄9年(1566年)にかけて伊達輝宗の侵攻を受け,桧原付近で迎え撃っていますが,いずれも穴沢氏が奮闘,撃退しています。
寡兵であるにも関わらず地の利を生かした戦いを行う穴沢氏の武勇と知略の程が伺えます。
なお,話は少し脱線するのですが,穴沢氏にまつわる話としまして,穴沢善右衛門(当主だと思われるが名前までは不明です。)という者が,宝刀・貞宗文明18年(1486年)頃に蘆名氏から与えられた刀のようです。)を用い,猫魔ヶ嶽に棲む化け猫を退治したというものがあります。
化け猫が存在したかはさておき,穴沢氏が武勇に優れていたからこそ,このような話が今に伝わるのかも知れません(もしかすると,化け猫というのは,先に書いた「山賊」を指しているのかも知れません。)。
さて,このように手強い穴沢氏に対し,正面から戦うのは不利と考えたのか,伊達輝宗の子である伊達政宗は謀略を用い穴沢氏一族の者と内応を謀り,その結果,天正12年(1584年)に多くの穴沢氏は謀殺または戦死を遂げることになります(なお,伊達政宗はこの頃まだ10代でした。)。
ただ,幸いにも謀殺された当主の子が同地を離れており,その後蘆名氏,また同地を治めた蒲生氏に仕えた後桧原の地に帰住することになります。
やがて,江戸時代を迎えると,この桧原の地には米沢街道の宿場である桧原宿が整備されることになりますが,もしかするとこの五輪塔や墓石は,穴沢氏子孫の方が同宿近くに造り祀っていたものではないでしょうか。
なお,かつての桧原宿が存在した場所は,残念ながら明治21年(1888年)の磐梯山噴火により出来た桧原湖の湖底へと沈んでしまいました。
実は,五輪塔や墓石は,元から現在の場所に存在していた訳ではなく,桧原湖が渇水した際に湖底から移したと伝わるとのことです。
もしかすると,穴沢氏の末裔の方が磐梯山噴火後,この五輪塔や墓石を,現在の地に移したのかも知れません。
現在の桧原湖及びその附近の様子です。
残念ながら,桧原宿を偲ばせるようなものは残ってはおらず,この五輪塔及び墓石と,近くにある桧原歴史資料館が歴史を今に伝えるのみとなっています。
参考資料
会津の街道(歴史春秋社)
その他