こんにちは、四十雀です。
今回は、郡山市にある片平城のご紹介をいたします。
片平城は郡山市西部にある片平町の集落内、丘陵地を利用した山城です。
なお、同地には現在地名として「郡山市片平町片平上館」という地名が残りますが、こちらがここで紹介する片平城がある場所です。
そして、対となる「片平下館」という地名がかつてあり、ここには片平城とは別の平地館が存在していました。
少しややこしいのですが、当初、この地にはこの平地館である片平城(下館)が存在していました。
ただ。平地館は敵の侵攻から守りづらいという欠点があるため、後、現在の地(片平上館)に城郭の機能を移転した経緯があるようです。
現在の片平城の遠景です。
周囲は開発が進み、あまり遺構はありませんが、北西部には曲輪が残るといいます。
片平城には丁寧に案内板が存在していますが・・・。
さらに先に進むには、民家の裏のこの細い路地を通らなければならないようで、ここまでで断念しました(道が細い、というだけではなく、純粋にこの付近に駐車場がなかったのも理由の一つです。)。
現在、頂上付近には愛宕神社があるそうです。
先へ進むのを諦めたもう一つの(そして最大の)理由がこちらです。郡山市の郊外ですが、熊が出る確率があります・・・。
さて、この片平城は、同地を本拠とした伊東氏が築いたとされています。
伊東(安積伊東)氏は、建久4年(1193年)に発生した「曾我兄弟の仇討ち」で討たれた工藤祐経の次男・伊東祐長が、建暦3年(1213年)に発生した泉親衛の乱の恩賞として安積郡を賜ったとされています(なお、書籍により、工藤祐経が文治5年(1189年)の奥州征伐の功績で安積郡を賜ったとする文献もあります。)。
戦国時代に入ると安積伊東氏の治める安積郡は四隣の勢力に攻められ、この地は草刈場の様相を呈します。
具体的には、永禄2年(1559年)に会津の蘆名氏の侵攻を受け、片平の地も蘆名氏の配下となるのですが、天正4年(1576年)には田村氏の侵攻を受け、片平城は落城しています。
この天正4年の落城後、片平氏は田村氏の配下・大内氏に預けられ、入城した大内親綱は片平氏を名乗ります。
余談ですが、この親綱の兄は大内定綱といい、後に伊達政宗の配下となる人物で、伊達政宗の二本松攻めに登場することで有名な人物です(定綱は戦上手として名高く、十文字槍の名手と言われています。)。
さて、大内改め片平親綱は上記のとおり田村氏の配下でしたが、後に田村氏を離れ蘆名氏に属し、さらに天正17年(1589年)には伊達氏に属します(兄の定綱も周辺勢力との離合を繰り返しています。)。
親綱のこの行為が、伊達氏と蘆名氏の勢力均衡を崩し、やがて伊達氏による蘆名氏の侵攻に繋がることになるのです。
このように、幾度も合戦が繰り広げられた片平城なのですが、その後、いつ廃城とされたかについては残念ながら不明であります。