こんにちは,四十雀です。
今回は,東白川郡棚倉町にある棚倉城についてのご紹介をいたします。
棚倉町中心市街地にある棚倉城ですが,かつてこの地には都々古和気神社が存在していました。
しかし,元和8年(1622年),丹羽長重が棚倉5万石を拝領,入部した後,寛永元年(1624年),幕命によりこの地に城を築く際,同神社を馬場の地に移し,この地に城を築くことになります。
神社が置かれていた地に城を築く理由としては,社域が広く北側に林が存在していたこと,また,同神社は武装し兵力を要しており,城に近い形を有していたことが考えられています。
なお,棚倉城を築いた丹羽長重の父,長秀は織田信長の四名臣として,また,築城の名人としても有名な人物です。
国道118号線沿いにある,棚倉城への入口となります。
棚倉城は寛永2年(1625年)に普請開始,同4年(1627年)に竣功していますが,残念ながら丹羽氏はその竣工を見届けることができませんでした。
以降,棚倉藩は,丹羽氏以降,
寛永4年(1627年) 内藤氏
宝永2年(1705年) 太田氏
享保13年(1728年) 松平氏
延享4年(1747年) 小笠原氏
文化14年(1817年) 井上氏
天保7年(1836年) 松平氏
慶応3年(1867年) 阿部氏
と,八家もの大名が統治しています。
このうち,松平氏(四家目)は,義父が将軍名代として日光東照宮参詣の折不始末をして左遷,小笠原氏は東海道を荒らす大盗賊を取り逃した理由で左遷,井上氏は暴行事件を口実に左遷・・・と,棚倉の地は左遷の地として有名でもありました。
一方,上記三氏は棚倉から出た後,三氏とも松平氏や井上氏の家系から老中や大坂城代になるなど,この地で力を蓄える,いわば「栄転の地」であるとする説もあります。
余談ですが,私も1年間だけ仕事の都合で棚倉町に住んだことがありますが,その時は正直,左遷されたのだと思い,相当ショックを受けました。
しかし,本来3~4年はいるところ,内部試験に何とかパスしすぐに出ることが出来ました。そういう意味では栄転の地ともいえなくはありません・・・。
棚倉城近くにある「時の鐘」です。これは,棚倉町と友好都市の関係にある川越市にある時の鐘を模したものです。
これは,松平氏(七家目)が棚倉を出た後,川越の地に栄転をしたことも由来しているのだと思います。
棚倉城の周囲には,現在も水をたたえるお堀が残されています。
現在の棚倉城の様子です。以前は天守を模した図書館がありましたが今はなく,この日,野鳥の囀りと子供達の歓声が響いていました。
なお,棚倉城は戦国時代以降に築かれた城のため合戦の経験はなく,ただ,戊辰戦争時,東軍(旧幕府軍)についたため,板垣退助率いる西軍(新政府軍)の攻撃を受け落城,その際,城兵は城に火を放ち落ち延びました。
最後に,畑俊六終焉の地の石碑のご紹介です。
元帥陸軍大将で陸軍大臣の経験もある畑俊六は会津藩士の父を持つ人物で。昭和37年(1962年),棚倉町にて戦没者慰霊碑除幕式出席中倒れ,脳内出血のため没しています。
参考資料
ふくしまの城(歴史春秋社)
ふくしま紀行 城と館(福島民報社)